The Remains of Runners ~走者の追憶~

陸上競技の海外記事を中心に執筆します。

生涯現役のアスリート①

マスターズの世界大会も行われているように、陸上競技生涯スポーツとしての側面も持ちます。

 

ふと年齢別の世界記録を眺めていると、その記録には驚くばかりです。記録保持者の中には、往年の名選手の名前も見ることができます。

 

今回は、生涯現役をテーマに記録に挑み続けるアスリートを紹介していきたいと思います。

 

マリーン・オッティ (Merlene Ottey)

五輪で9つのメダル、世界選手権では金メダルを含む15個のメダルを獲得した名スプリンターです。これだけの栄冠を得た後も、走ることへの情熱は衰えず、マスターズの世界記録を次々に更新。100mを40歳で10.99(-1.2)、46歳で11.34(+1.8)、50歳で11.67(+0.9)、52歳で11.96(?)と生涯現役を貫き今も走り続けています。

 

52歳、100mを11.96で走るオッティ

www.youtube.com

 

YouTubeで確認できる限りでは、この2012年のレースが最も新しいものです。しかし、2017年のインタビューでオッティは次のように述べています。

 

"When I look, I see there are other people competing that are 75 to 100 years old, there is no limitation there, so, I'm going to stay running and see what i can do."

 

 「周りを見渡せば、75歳とか100歳とかになっても競技を楽しんでいる人はいます。限界なんてありません。私はこれからも走り続け、自分がどこまでやれるか挑戦していきたいです。」

 

この言葉通り、オッティは今もトラックに立ち続けていると思います。

 

《参考資料》

Merlene OTTEY | Profile | iaaf.org(2018年9月20日

List of world records in masters athletics(2018年9月20日

Meet the People: Merlene Ottey, Seven-Time Olympian and Still an Unstoppable Force(2018年9月20日

キム・コリンズ (Kim Collins)③

 前回、前々回に引き続き、キム・コリンズと国との問題に焦点を当てていきます。

 

過去記事はこちら↓

キム・コリンズ (Kim Collins)① - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

キム・コリンズ (Kim Collins)② - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

 

目次

1.逮捕と兄の死亡

2.キム逮捕時の妻による証言

3.まとめ

 

1.逮捕と兄の逝去

www.jamaicaobserver.com

(2018年8月15日アクセス)

 

(本文・見出し)

Kim Collins arrested over child support issue

 

キム・コリンズ、子供支援問題で逮捕される。

 

記事の見出しの通り、コリンズは2013年に子供支援に関する罪を問われ逮捕されています

 

こちらの記事も全訳していきます。まとめはその後に書きます。

 

(本文)

BASSETERRE, St Kitts (CMC) - Iconic sprinter Kim Collins says he does not owe any money in child support following his arrest as he prepared to leave the country.

Police escorted Collins to a courthouse in St Kitts after his arrest in Nevis as he was boarding an aircraft to travel overseas.

A complaint is believed to have been made that Collins was leaving the country without making adequate provisions for his next payment.

However, WINN FM says it understands that Collins did not owe any money in child support when he was arrested.

It was alleged that Collins was in breach of child support payments but paid up monies owed since October before travelling to St Kitts. 

Collins has been quoted as saying he had receipts to show he was not in arrears and had documents to prove that he had put measures in place for the payments to be made.

He said the court ordered that amendments be made to one of the documents and that was done.

Reports indicate that Collins was allowed to travel after sureties were again identified for his next payment if he failed to do so.

Collins was detained as he returned to the island to attend his brother’s funeral after winning the 60 metre-dash in 6.57 seconds at the Russian Indoor Winter games.

 

(和訳)

セントクリストファーネイビス、バセテールにてースプリンターのアイコン的存在であるキム・コリンズは子供支援に関して一切の費用を負っていないと主張する。逮捕前のコリンズは出国の準備を進めていた。

 

警察は外国に渡航する直前であったコリンズを法廷に召喚した。

 

警察は主張した。コリンズは次回の支払いに関して適切な用意をしないままに、出国するところだった。

 

しかしながら、WINN FN によると、警察は子供支援の費用に関してコリンズに全く責任がないことを逮捕の時点で把握していた。

 

コリンズは子供支援金の支払い規約に違反したとして罪を問われた。しかしながら、セントキッツに飛び立つ前の10月にコリンズは負っていた金額を返済している。

 

コリンズは、自分は領収書を持っていて、それは借金を延滞していない証拠になると語る。同様に、彼の持つ資料では、支払いに応じて適切な処理を行ってきたことが証明できると言う。

 

コリンズによると、法廷側は彼が資料を改ざんしたと訴えている。

 

さらに報告書によると、コリンズは次の支払いに関する保証が確認された後ならば渡航が許可されるとされている。

 

コリンズは、ロシアで開催された室内競技会の60mで6.57の記録で優勝した。しかし、その後に弟の葬式のため島に戻ろうとしたところを拘留された。

 

このように、コリンズは児童支援に関する金銭問題についておそらく不当に申し立てられています。さらに、最後の文ではコリンズの弟が死去したことが示されています。コリンズの弟は警察に射殺されたそうです


www.whatsupcaribbean.com

(2018年8月15日アクセス)

 

引用は省きますが事件の顛末は以下のようです。

 

コリンズの弟であるカルスタス・ブラウン (Callustus Brown) は関係がこじれていた妻をナイフで刺した。

駆け付けた警察は武器を下すように指示したが、ブラウンはそれを拒否した。そればかりか、警察の一人も刺してした。

その後、警察に打たれて死亡。

 

事件の真相をこれ以上追及することは困難です。しかしながら、キム・コリンズは国との確執に加えて、このような事件まで起こってしまい、ストレスに晒されたことは容易に想像できます

 

また、別記事によるとコリンズは「二度と母国のためには走らない。」とまで宣言しています。

 

www.thesun.co.uk

(2018年8月15日アクセス)

 

(本文)

A furious Collins - who carried the flag for his country at the Opening Ceremony - said he would never again run for the tiny Caribbean nation after being shown a lack of respect.

(和訳)

激怒したコリンズは、敬意にかけた態度を示されたがため、二度と小さな島国である母国のためには走らないと誓った。コリンズは、オリンピックで代表選手団の旗手を務めた人物であるにも関わらず…

 

2.キム逮捕時の妻による証言

では、コリンズが逮捕されたことについて周りはどう反応したのか。コリンズの妻の主張を見ていきます。

 

SKNVibes | Kim Collins' wife speaks out about his arrest(2018年9月11日アクセス)

 

(本文)

BASSETERRE, St. Kitts - PAULA COLLINS, wife of St. Kitts-Nevis’ sprint icon Kim Collins, has spoken out on his recent arrest in Nevis.

 

Calling into WINN FM's daily talk show ‘Voices’, Paula spoke passionately about Kim's recent arrest for allegedly owing child support and revealed what transpired while he was being transported from the Vance Amory International Airport in Nevis.

 

Paula claimed that the vehicle within which her husband travelled after being arrested “crashed head on in Nevis with Kim in the car, almost killing him...”

 

She stated that the vehicle was being driven by a police officer and that following its collision with another vehicle, the officers did not seek medical assistance for her husband

 

“After they [police] took him out of the airport, it was as if there was a bad thing in the air because as a police officer you know that Nevis does not have that amount of traffic at that time of the day, what were you doing that you are going to have a head on collision with somebody?

 

“He [Kim] has made St. Kitts a force to be reckoned with.  So, if you are taking someone like that - he is innocent until proven guilty - and you are going to crash into a car and never ask him if he is okay, get him any medical [assistance] - anything?”

 

SKNVibes investigated these claims which were confirmed by a police official that the vehicle carrying Kim did collide with another last Thursday (Feb. 7) while he was being transported from the airport.

 

With regards to Kim having to appear in the Magistrate's Court in St. Kitts, Paula explained that arrangements were made to ensure that monies for maintenance were made while he is overseas.

 

“We have two lawyers signed in the Magistrate’s Court that says they have the responsibility that if Kim is not on the island the child support will be paid. Why Kim was pulled outside of the airport and tried to be disgraced in that way? Nobody understands.”

 

When asked her thoughts on the reason for her husband’s ill treatment, Paula expressed that persons may be envious of him.

 

“Envy! A jealous set of people who are not trying to find out what is going on. The police seem to be one-sided, the Court system seem to be a mess, because he keeps going to a Court that has not given him any rights.

 

“Imagine the same people that had him in Court went in his car to pull his own child out of his car. And when Kim went to Court with them, the police lied in Court, the baby mother lied in Court, the husband lied in Court and Kim was still found guilty. A system like that I just don’t understand.”

 

Paula expressed that while St. Kitts may have many people who truly care for Kim, there are others who do not have good intentions for him, and it is their voices being heard and their actions seen.

 

Sprint icon Kim was arrested in Nevis last Thursday at the Vance Amory International Airport for allegedly not making adequate arrangement to support his children while overseas.

 

Kim was reported by another media house as saying he did not owe any child support and had receipts to show he was not in arrears, as well as documents to prove that he had put measures in place for payments to be made.

 

SKNVibes understands that the Court had ordered that amendments be made to one of the documents which was done and that Kim was allowed to travel after sureties were again identified to make the required payments if he failed to do so.

 

(和訳)

セントクリストファーネイビス、バセテールにてー国のアイコン的存在であるスプリンター、キム・コリンズの妻ポーラ・コリンズは夫の逮捕についてネイビスにて語った。

 

WINN FMのトークショー、"Voice" に招待されたポーラは夫の逮捕について熱心に語った。夫のキムは子供支援に関するの責任を問われ逮捕された。ポーラは同様に、夫がネイビスのバンス.W.エイモリー空港から輸送されたときの様子についても口を開いた。

 

ポーラの主張によると、夫のコリンズが逮捕後に乗せられた輸送車は「正面衝突事故を起こし、夫は危うく死ぬところであった」。

 

さらにポーラは続ける。その車は警察官が運転しており、他の車と衝突事故を起こした。しかし、事故の後、コリンズに対しては何のメディカルチェックもなかった。

 

「警察が彼を連れて空港を出た後、何か不穏な空気がありました。ご存知の通り、ネイビスの日中はそれほど交通量が多くありません。それなのに、どうして正面から衝突するような事故が起こるのでしょうか。」

 

「夫はセントクリストファーネイビスという国の名前を世界に認知させました。そのような人を車に乗せているのに、事故を起こし、さらには怪我の確認もせず病院にも連れて行かないなんて、、、。夫はその時に何の罪も認められていなかったのですよ。」

 

SKNVibesメディアは、ポーラの主張に基づき調査を行った。その結果、2月7日(木)にコリンズを空港から輸送中、車を運転していた警察が事故を起こしたことが正式に確認された。

 

夫が治安裁判所に出廷させられたのは、キムが海外滞在中に子供支援の費用を工面したことを問うためだった、とポーラは説明する。

 

「私たちは治安裁判所の弁護人2人を雇っています。彼らによると、キムには国にいない間も児童支援金の支払い責任があります。なのにどうして夫が空港から強制送還されて、辱めを受けなければならなかったのか。全く理解できません。」

 

夫に対する対応の不適切さは、特定の人々が夫を妬んでいることから来ている、とポーラは考える。

 

「嫉妬よ!夫を妬む人たちは、真実が何なのかを全く糾明しようとしない。警察は一極に固まっているし、司法制度も混乱している。彼らの前では、夫は何の権利も保証されていないのと同じです。」

 

「こんな状況を想像してみてください。キムを出廷させようとする人間が車に乗り込んできて、彼の子供を車から締め出す。そして、出廷すると警察は嘘の証言をしている。妻も嘘を報告する。夫も嘘の証言をする。結果、キムはまた罪を問われる。私は、どうしてこんなシステムになっているのか理解できません。」

 

ポーラは続けて語る。セントクリストファーネイビスには夫を敬う人もたくさんいるかもしれない。その一方で、キムをよく思わない人も多い。そして、みんなの耳に触れたり、実行されたりすることの多くは彼らの意思に基づいている。

 

スプリンターのアイコン的存在であるキム・コリンズは先週の木曜日にネイビスのバンス・エイモリー国際空港で逮捕された。彼が問われた罪は、海外渡航中に自分の子供に対して十分な支援金を工面しなかったことだ。

 

一件は他メディアにも取り上げられているが、それによるとキムは子供支援に関して何の義務もないし、お金を滞納していないという証拠も持っている。同様に、支払うべきお金の類は納めていることを示す書類も持っている。

 

SKNVibesメディアは、裁判所が要求した補償をキムは既に完了していることを確認した。また、要求される支払いを済ませたのちにキムが海外渡航を許可されるという情報も掴んでいる。

 

さて、引用をまとめていきます。2013年にキムコリンズは逮捕されました。問われた罪とは、コリンズが子供支援金の支払い規約に違反した、というものです。しかしながら、記事ではコリンズが然るべき対応をしてきたことが示されています。ゆえに、やはり警察の作為的なものが背後にあるように思われます。さらに、コリンズが逮捕されたとき、彼を乗せた車は事故を起こします。しかし、コリンズは国の英雄的なアスリートであるにも関わらず、一切のメディカルチェックも行われなかったそうです。このことからも、どれだけコリンズが母国で不当な扱いを受けていたのかが推し量れます

 

 3.まとめ

今回は、ロンドン五輪後もコリンズと母国との間には深刻なトラブルがあったことを示しました。以上のように、コリンズは不可解に逮捕されたり、兄が警察に殺害されたりと相当な精神的ストレスを受けていたと思われます。過去記事で見てきた、国の二極化がここまで深く根をおろしているとは予想していませんでした。

 

このように、コリンズと国との関係性は地に落ちた感があります。しかしながら、コリンズは2015年に国の代表に返り咲いています。

 

次回は如何にしてコリンズが国との不和を解消していったのかを見ていきたいと思います。

 

キム・コリンズ編が想定外の長編記事になってしまいましたが、次回以降もお付き合いお願いします。

 

続きはこちら↓

キム・コリンズ (Kim Collins)④ - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

キム・コリンズ (Kim Collins)②

キム・コリンズ (Kim Collins)②ということで、今回はロンドン五輪での騒動、そしてコリンズと母国との確執について明らかにしていきます。

 

前回の記事はこちら↓

キム・コリンズ (Kim Collins)① - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

 

目次

1.ロンドン五輪での騒動

2.母国との確執

3.まとめ

 

1.ロンドン五輪での騒動

現役復帰後に再び輝きを取り戻したコリンズは、2012年のロンドン五輪代表に選ばれます。しかしながら、100mのスタートラインにコリンズの姿はありませんでした。一体何があったのか?以下の記事に詳細がありまs。

 

www.telegraph.co.uk

(2018年8月15日アクセス)

 

(本文)

Kim Collins was supposed to be making history on Saturday morning as the first person to compete in five Olympic Games for St Kitts and Nevis. (中略) But now the 36-year-old father of two is heading home, withdrawn from competition by his team's officials in punishment for staying overnight in a hotel with his wife.(後略)

 

(和訳)

キム・コリンズは、五輪に5度出場した初のセントクリストファーネイビス人選手として歴史に名を残すはずだった。(中略)しかし、36歳を迎えた二児の父親はいま家に向かっている。コリンズはチームから外されていたのだ。その理由は、彼が妻と一晩ホテルで過ごしたからであった。(後略)

 

ロンドン五輪の100m決勝はウサイン・ボルト (Usain Bolt)、ヨハン・ブレイク (Yohan Blake)、ジャスティン・ガトリン (Justin Gatlin)、タイソン・ゲイ (Tyson Gay)、アサファ・パウエル (Asafa Powell) ら世界歴代1位から5位までの記録を持つスプリンターが同じ舞台で走った、世紀の一戦でした。タイソン・ゲイが試合前にメダル獲得には9.7台が必要だろう」と語るほどのハイレベルな争いでした(実際にゲイは9.80で走りながらメダルを逃した)。世紀の一戦が行われているというのに、コリンズはなぜその舞台にいないのか。驚くことに、コリンズはその頃、家に帰るところでした。なんと、彼は試合前にチームを外されるという憂き目にあっていました。しかも、その理由が「五輪期間中にチームに帯同せず妻と時間を過ごしたから」です。つまらない(?)理由で歴史上稀にみる熱戦を欠場し、さらには5回の五輪出場という素晴らしい記録も断念することになりました。セントクリストファーネイビスがなぜ、このような理由でコリンズを締め出したのかは定かではありません。コリンズの言い分は以下のようです。

 

(本文)

"I feel that I should stay in a hotel with my wife, with or without their permission, that's the honest to God truth whether they like it or not. I should have that," he said.

"This is how it ends, it ends on a really sad note. I should have been allowed to run. I don't see what is the big deal, I am a grown man, I'm just about to become a grandfather."

"I did not come to London to watch the Olympis 100m on TV. What am I supposed to do? I'm going to see my kids who I have not seen for a while. The race has gone now"

 

(和訳)

「許可があろうとなかろうと、私はホテルで妻と過ごすべきだと感じている。自分がどうしたいかに関係なく、そうすべきだったんだ。」コリンズは言った。

「しかし悲しいことに、これがその結果だ。私は走ることを許されるべきだった。妻と過ごすことの何が、重大な問題なんだ。私はもうすぐ祖父になろうとしている立派な大人だ。」

「私はロンドンに観戦に来たのではない。この後どうすればいいと言うのか?私は家に帰る。家に帰って、しばらく会っていない子供たちの顔を見に行くよ。もうレースは終わったんだ。」

 

オリンピックでは選手村が設けられますが、そこへの滞在は決して義務付けられている訳ではありません。したがって、妻と五輪期間を過ごそうが、それはコリンズの自由です。しかし、チームとしてのルールに厳しかったのか、セントクリストファーネイビスは帯同しなかったコリンズを処分します。若くて血気盛んな選手に対してなら、選手村でおとなしくしていなさい、という主張は分かります。しかし、コリンズは36歳の立派な大人な訳ですから、単独行動を取っただけでチーム追放という処罰は重すぎないか、と感じます。ともあれ、コリンズは以上の騒動でロンドン五輪には出場しませんでした。

 

2.母国との確執

コリンズはロンドン五輪の翌年に行われたモスクワ世界陸上には出場していません。しかしながら、この年にも9.99をマークするなど好調を維持していました。このことから、2013年にはまだチームとの問題が解決していなかったと考えられます。実際の記事も見てみましょう。

 

www.independent.co.uk

(2018年8月15日アクセス)

 

(本文)

"I am the first man to get in trouble for allegedly having sex with his wife"(中略)"I really don't understand the logic behind it."

 

(和訳)

「私は妻と関係をもって罪を問われた唯一の男だよ。」(中略)「何がいけないのか全く理解できない。」

(本文)

"I'm the most senior athlete on the planet, so at what point do you cut  me some slack - even though they knew it was happening before it happened?"

 

(和訳)

「私は最も年長の選手だ。どうして少しくらい多めにみてくれない?彼らは事前に私が妻と過ごそうとしているのを知ってさえいたのに。」

 

このように、2013年のコリンズは未だチームに対して憤りを抱えています

 

他の記事も調べたところによると、どうやらコリンズと国との確執はロンドン五輪時に始まったことではなかったそうです。

 

SKNVibes | “I’ve been disrespected for too long for too many years.” Kim Collins

 

(本文)

Their stories did not completely mesh but what was very evident is the sour relationship existing between the SKNOC and Collins with each side faulting the other for the breakdown in communication and with each side defiantly justifying its actions.

 

(和訳)

彼らの主張は完全に食い違っている。セントクリストファーネイビスオリンピック委員会(以下、SKNOC)とコリンズの確執が露呈した形だ。両者は互いを批判し合い、自分たちの行動を正当なものであると訴えている。 

 

ここから先は非常に長いですが、全訳していきます。最後にまとめるので、読み飛ばしてもらっても構いません。

 

(本文)

What did Kim Collins mean when he told BBC Radio Five Alive, "I've been disrespected for too long for too many years?" 

 

To understand that statement one would have to be a resident of St. Kitts and understand how polarised this country is politically. So much so, that in any one administration it is seen as a justified right to totally ignore the skills and expertise of members of the opposing side and refrain from facilitating any upward mobility of these persons. Many have had to migrate to earn a living,

 

No one describes this better than the Deputy Prime Minister who in the euphoria of winning the 2004 election was heard to shout, “It’s Labour time now. I hate to see PAM (the Opposition) people getting through ahead of Labour people.”

 

Did Collins fall into this category? Admittedly, some events appear to endorse this.

 

Just this year when there was much to-do over welcoming members of the royal family during the Golden Jubilee celebrations, one of the events was held on the Kim Collins’ Highway and invitations were sent to dignitaries to meet the Duke and Duchess, but Kim Collins received no such invitation although the event was occurring on the road bearing his name.

 

When one compares this with the important part that was played by Usain Bolt, Jamaica’s world champion, in their Jubilee celebrations, one was left to wonder why Collins was not even invited and promoted as he,too, had become a world figure.

 

In 2004, shortly after Collins became a world champion, the National Women’s Group wanted to do something to honour him. They received permission from the Agricultural Dept to plant a number of Flamboyant Trees (Delonix Regia) – the national flower – along the sides of the Kim Collins Highway. In a simple ceremony Kim himself planted the first one and several trees were planted after this.

 

The very next day, the Minister sent his government workers to uproot the trees stating that no permission had been given to do this and that they had plans for the highway. In their anger, the workers uprooted more trees than NWG had even planted. Today, eight years after, no plans have materialised and the highway has not even had lighting.

 

The naming of the new Athletic Stadium was another instance where many felt that Collins was not given the respect he deserved. There was a very united request from the community (including sports bodies) to name the stadium the Kim Collins Stadium. It seemed the country was united on this issue.

 

However, the Government chose to name only a Stand after the world champion and the stadium was called by the very sterile name of the Silver Jubilee Stadium – a throwback to colonial times.

 

Even when Collins showed his commitment to sharing his knowledge and expertise through a Track and Field Camp in April 2011, under the theme ‘Sharing to Achieve Greatness’, he was given very little support.

 

The camp featured world class coaches and athletes providing valuable knowledge to over 100 children and their individual coaches, so that they could aspire towards greatness in this field.

 

'Every aspect of Track and Field was covered in great detail, including sessions in proper warming up and cooling down exercises, dangers of drugs and alcohol in sports, the life of being a student athlete, tips on becoming a professional athlete, weight and strength training, proper nutrition of athletes, baton passing and making a school’s sports day more exciting, and a bigger revenue earner.'

 

Collins told SKNVibes that he was hoping for better things to arrive as a result of the camp in terms of Track and Field in the Federation.

 

But after the camp, and on the talk show yesterday Collins revealed that much support was not forthcoming and he had to do almost everything.

 

“I was really thinking that there would have been other persons here to assist and, because of that situation, it made it more difficult,” Collins said.

 

In addition because of his association with Adidas, he was able to bring much sponsorship to athletes in the Federation. This is often forgotten.

 

So while in other countries and even in the Caribbean, Collins is given ‘a hero’s treatment’, in his own country, his treatment is very low key.

 

Yesterday, for the first time we heard about his medals being stolen since 2008 and he expressed dissatisfaction over what he thought were mediocre efforts to assist him in regaining them.

 

Arguments persist about the size of the house given to him when he became a World Champion, about the fact that there is no governmental acknowledgement on Kim Collins Day, and now about whether he can justify not being in Olympic Village when he left to be with his wife  to garner some peace and quiet before his major event.

 

Unfortunately much of the support for Collins or lack of it falls directly along political lines.

 

While one side tries to boost him and openly acknowledge that he has placed St. Kitts on the world stage, the other tries to minimise his achievements, ignore his vast contribution and continually carry on egotistic battles to prove who is bigger than whom and who ought to be kept in his place.

 

The failure of the SKNOC to acknowledge the contribution his wife made to the team in general has also been a sore point with Collins.

 

At the Press Conference SKNOC indicated that they did not even know whether she was qualified or certified. Not so, said Collins in the call-in programme. They are very much aware that she is IAAF certified yet she was not allowed to join the team and he encountered difficulty in procuring passes for her to enter Olympic Village.

 

After years and years of travelling alone and now having his wife at this first important meet, this seeming disregard towards him and his wife all in a very charged and stressful atmosphere – this might have been the straw that eventually broke the camel’s back, giving rise to Kim Collins - the fiercely adamant and independent operator.

 

For years the debate will go on as arguments and counter-arguments are put forth to prove who was right and who was wrong – as if that really matters.

 

What we can say with some certainty is that had Collins traveled without an official delegation, as he has done hundreds of times over his near twenty reign, we can be reasonably sure that he would have been on that Olympic field and once again putting a positive image of St. Kitts on the world stage.

 

(和訳)

キム・コリンズはBBCラジオFive Aliveにて「私は長年にわたり敬意に欠ける扱いを受けてきた。」と語った。その言葉の意味するところは?

 

国が政治的に二極化していることを知るセントクリストファーネイビスの住民でなければ、この主張の意味を理解することは難しいだろう。国内ではどのような組織においても、反対勢力側の優れた技術や専門知識を無視することが正当化されている。それゆえ、有能な人物の昇進が阻害されている。多くの人材が移住してしまうのはこれが原因だ。

 

この状況を説明するのに、2004年の選挙で勝利した副首相ほど相応しい人物はいない。彼は「今や時代は労働階級者のためにある。対立側の人間のみが出世していくのにはうんざりだ。」と訴えた。

 

コリンズも労働階級者として語られるべきか?確かに、この事実を裏付ける出来事もあった。

 

今年の50年祭では、英国王室をもてなすために多くの試みが成されたが、そのイベントの一つは「キム・コリンズ記念道路」にて行われた。そして、その式典にて侯爵や侯爵夫人との面会が許される招待状は、高位の人々に届けられた。しかしながら、式典が自身の名を冠した道路で行われるにも関わらず、キム・コリンズは招待されなかった。

 

例えば、ジャマイカの世界王者、ウサイン・ボルトが同じ立場にあったと考えると分かりやすい。どうして、ボルトと同じく名声を上げたキム・コリンズが招待されないという事態が起ころうか。

 

コリンズが世界チャンピオンになってすぐの2004年、全米女性連盟は彼の功績を称える意向を示した。連盟は、農務省から国花である艶やかな鳳凰木を「キム・コリンズ記念道路」に植える許可を得た。この簡単な式典で、コリンズは最初の花を植え、その後には木々も備え付けられた。

 

まさにその翌日、大臣は政府の役人を派遣して木々を掘り返してしまった。大臣は「花や木々の植え付けの許可など与えられていない。我々は高速道路の建設を予定しているのだ。」と主張した。8年後の今日になっても、その計画は全く実行されておらず、道路には電灯さえ見当たらない。

 

また、新しい陸上競技場につけられた名前からも、コリンズが十分な敬意を払われていなかったことが分かる。競技場名を「キム・コリンズ記念スタジアム」とするべきだという意見が各組織から出ており、政府もその意見に同意したかに見えた。

 

しかしながら、政府はスタンドにコリンズの名前を使ったに留まり、スタジアム自体には「25年祭記念スタジアム」という面白みのない名前が付いた。控えめに見て、この名前は植民地時代への後戻りでしかない。

 

他にも、2011年の4月にコリンズは自身の知識や技術を伝えるため、「成功の秘訣を伝授」と題した陸上競技の合宿に出席した。しかし、彼が受けたサポートは微々たるものに過ぎなかった。

 

その合宿では、世界的な名コーチや選手が招聘され、100人を超える子供やそのコーチに技術指導がされた。すべては、陸上競技の活性化を促すためだった。

 

陸上競技のあらゆる側面は非常に繊細さを要する。適切なウォーミングアップから、クールダウン、薬物やアルコールの危険性、学生として競技すること、プロの選手になること、ウェイトなどの筋力トレーニング、適切な栄養補給、バトンパス、学校で行われるスポーツをより有意義なものにすること、そして多くのお金を稼ぐこと、などね。」

 

コリンズは、合宿の成果が陸上競技連盟により良い影響をもたらすことを期待している、とセントクリストファーネイビスに語った。

 

しかし、合宿後に行われた昨日のトークショーでコリンズが語ったところによると、結局特別な支援は受けられず、ほとんど全てを一人でやらなければいけなかった。

 

「他の人たちがサポートしてくれれば、と思うよ。でもこんな状況だから、それは一層難しくなったね。」コリンズは言う。

 

加えて、コリンズはアディダスと契約しているため、連盟に所属する選手にスポンサーを提供することもできる。これは見逃されがちな点だ。

 

他国、それもカリブ海の国々でさえコリンズはヒーローとしての扱いを受けている。しかし、母国での彼の扱いは程度の低いものだ。

 

昨日、初めて我々は2008年以来盗まれてしまったコリンズのメダルについての話を聞いた。さらに、彼はメダルを取り戻すためにされた、やる気のない捜査に対して不満を示した。

 

コリンズが世界チャンピオンになった際に与えられた家のサイズに関する口論も未だ残っている。また、実際のところ「キム・コリンズ記念日」について政府から一切の承認もないという。そして今、彼らが言い争っているのは、大きな大会前に心を落ち着かせるため選手村を離れ妻と過ごすことを正当化できるか、という問題だ。

 

不幸にもコリンズへの支援の大部分、または支援の欠如は政治的な側面が直接的に反映されている。片方がコリンズをセントクリストファーネイビスの知名度を上げた英雄だと祭り上げる。すると、反対側はコリンズの功績を過小評価しようし、彼の多大なる貢献を黙殺する。結局両者は、誰々は誰々より優れている、誰々がコリンズの立場に置かれるべきだ、とエゴに満ちた論争をするだけだ。

 

SKNOCはコリンズの妻がチームに貢献してきたことを認めない。そのことも同様にコリンズにとって納得できない点だ。

 

報道によると、SKNOCはコリンズの妻が公式に適任とされているのかについてさえ明らかにしていない。それは違う、とコリンズは視聴者が参加する番組で語った。彼女が国際陸上競技連盟に資格を付与されていることは皆が知っていた。しかしながら、チームに加わることは認められなかったため、選手村に彼女を招くことは困難だった。

 

何年も一人で戦っていきた末に、今回は妻を隣に大切な大会に臨むことが出来た。しかし、緊迫したストレスの多い雰囲気の中、コリンズと妻は完全に軽視されていた。これが引き金となり、コリンズは頑固な根無し草となってしまった。

 

何年にもわたり、誰が正しくない、誰が間違っている、といった議論は続いてきた。あたかもそれが重大な事であるかのように。

 

我々が確かに言えるのは、コリンズが代表に任命されずに遠征していたことだ。それは約20年に渡り何百回もの回数に及ぶだろう。我々は当然、彼を再びオリンピックの舞台で見ること、また世界的なレベルでセントクリストファーネイビスに好意的な印象を残してくれると信じている。

 

長くなりましたが、記事を訳しました。どうやら、表面的なニュースで見るよりも問題は深いところに根を下ろしているようです。

 

ポイントをまとめると、

・セントクリストファーネイビスは政治的に二極化しており、それがスポーツ界にも影響している。

・コリンズはおそらく労働者階級と位置付けられ、差別に近い扱いを受けてきた。(50年祭への招待なし、植林の拒否、スタジアムの命名、支援の少なさ、メダル紛失の際の調査、記念日の承認、五輪での騒動)

 

このように、コリンズと国との不和は長きにわたり続いてきました。

 

3.まとめ

コリンズは五輪で旗手を務めたほどの選手ですので、正当にセントクリストファーネイビスの英雄として評価を受けているものとばかり考えていました。しかしながら、実際には彼と母国政府の間には大きな溝があることが明らかになりました。さらに問題はこれだけにとどまりません。具体的な内容は次回の記事で書いていきます。

 

キム・コリンズ③はこちら

キム・コリンズ (Kim Collins)③ - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

 

《参考資料》

Kim Collins runs another sub 10 secs to win in Hungary – NevisPages.com(2018年8月15日アクセス)

キム・コリンズ (Kim Collins)①

キム・コリンズ (Kim Collins) は最も好きなスプリンターの一人です。

 

世界で活躍する短距離走者としては細身であることや、40才を超えてもなお自己ベストを更新する等、とても魅力的な選手です。何よりも、走ることが好きなんだな、とコリンズの試合を見ていると感じます。

 

非常に長いキャリアを持つコリンズですが、今回はその略歴を途中までですが紹介したいと思います。

 

 コリンズの走り。

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目次

1.略歴表

2.1996年~2000年

3.2001年~2008年

4.2011年

5.総括

 

1.略歴表

略歴表

1976年4月5日 セントクリストファーネイビス (Saint Kitts&Nevis) に生まれる。

1996年 アトランタ五輪に出場。

1997年 世界陸上アテネ大会に出場。

1999年 世界陸上セビリア大会に出場。

2000年 シドニー五輪に出場。

2001年 世界陸上エドモントン大会で銅メダルを獲得。

2002年 コモンウェルスゲーム、100mで優勝。

2003年 世界室内選手権、60mで銀メダルを獲得。 

    世界陸上パリ大会の100mで優勝。

2004年 アテネ五輪に出場。

2005年 世界陸上ヘルシンキ大会で銅メダル獲得。

2007年 世界陸上大阪大会出場

2008年 北京五輪出場。

2009年 世界陸上ベルリン大会に出場

2011年 世界陸上大邱大会で銅メダルを獲得。

2012年 ロンドン五輪代表。

2013年 自己ベストの9.97をマーク。

2014年 自己ベスト更新。9.96をマーク。

2015年 世界陸上北京大会に出場。

2016年 40歳にして100mで9.93(+1.9)をマーク。リオデジャネイロ五輪に出場。

2018年3月3日 引退の意向を表明。

 

2.1996年~2000年

コリンズは、セントクリストファーネイビスというカリブ海の小さな島国に生まれました。何歳の時に陸上を始めたのかは分かりませんが、大学はアメリカのテキサス・クリスチャン大学に通っていました。セントクリストファーネイビスは観光が主要産業でこれといったビッグビジネスを持つ国ではありません。その中でもアメリカの大学に進学できたことから、コリンズはある程度裕福な家庭で育ったと考えます。1996年には20歳ながらアトランタ五輪の100mに出場します。結果は2次予選で敗退。記録は10.34でした。驚くことに、ここから2016年に至るまで主要な世界大会にほとんど全て出場しています。ここまで息の長いスプリンターは世界的に見ても非常に稀有な存在です。力をつけてきたコリンズは、2000年のシドニー五輪では100mで決勝に進出します。10.17で走り7位入賞しました。(7レーン)

 

シドニーオリンピック 陸上男子 100m決勝 - YouTube

 

3.2001年~2008年

2001年にはエドモントンで行われた世界選手権に出場し、200mで20.20をマークし銅メダルを獲得します。1レーンを走りメダル獲得とは珍しいですね。後半は激しい競り合いでした。この大会では100mでも決勝に残り、結果は10.07で5位でした。

 

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そして、2年後にパリで行われた世界選手権では100mで優勝に輝きます。記録は10.07と世界大会の優勝者としては平凡なタイムですが、1レーンを走ったコリンズが混戦を制しました。これは、コリンズのキャリアの中で唯一の世界大会(五輪、世界選手権)での金メダルです。

 

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さらに翌年のアテネ五輪では100mで決勝進出(10.00で6位)、2005年の世界陸上ヘルシンキ大会では100mで銅メダルを獲得します(記録は10.05)。

 

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2007年の世界陸上大阪と2008年の北京五輪は共に準決勝で敗退しました。しかしながら、2008年の五輪100mは決勝進出のラインが10.03という空前のハイレベルで行われた大会でした。コリンズは10.05のシーズンベストを出しています。結果は惜しくも敗退でしたが、大舞台でも自分のレースができるところがコリンズの強さです。1組目の5レーン。

 

Bejing Olympics - 100m Men's Semi Finals - Heats 1 & 2 - YouTube

 

4.2011年

コリンズは2009年に現役引退を発表しますが、2011年に復帰します。そしてウサイン・ボルトがフライングで失格になった世界陸上大邱大会の100mで銅メダルを獲得します。こういったチャンスをものにする点がコリンズの強さです。この時のコリンズは既に35歳になっていました。30歳半ば、それも一度は引退を表明した選手が世界選手権でメダルを獲得するという快挙を成し遂げました。中盤まではヨハン・ブレーク (Yohan Blake) をリードするなど、持ち前のスタートの速さを発揮したレースでした(3レーン)。また、この大会では4×100mリレーでも銅メダルを獲得しました。(1レーン、記録は38.49)

 

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5.総括

今回は、2011年までのコリンズの略歴を追ってきました。次回は2012年以降の競技人生について書いていきたいと思います。

 

続きはこちら

khorosho.hatenablog.com

 

《参考資料》

Kim Collins - Wikipedia(2018年8月3日アクセス)

Kim COLLINS | Profile | iaaf.org(2018年8月3日アクセス)

Kim Collins bids farewell to track at age 41 | Virgin Islands News Online(2018年8月3日アクセス)

Kim Collins Bio, Stats, and Results | Olympics at Sports-Reference.com(2018年8月3日アクセス)

GOFROGS.COM - Kim Collins Captures World Championship - TCU Horned Frogs Official Athletic Site(2018年8月3日アクセス)

Kim Collins' Day Off | Spikes(2018年8月3日アクセス)

Athletics at the 1996 Summer Olympics – Men's 100 metres - Wikipedia(2018年8月3日アクセス)

2007 World Championships in Athletics – Men's 100 metres - Wikipedia(2018年8月3日アクセス)

Beijing 2008 100m men - Olympic Athletics(2018年8月3日アクセス)

 

 

吉岡隆徳 (Yoshioka Takayoshi)

1932年のロサンゼルス五輪では故・吉岡隆徳さんが男子100mで決勝進出を果たします。吉岡さんは、その大会で優勝したエディ・トーラン (Eddie Tolan) の「深夜の超特急」という愛称にちなんで、「暁の超特急」と呼ばれた名選手でした。

 

0:56~ 1レーンを走る選手が吉岡さんです。

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3:34 ...so, there amongst the other runners was Takayoshi Yoshioka who's from Japan and he is famous for being a quick starter and in fact in the Olympics final he dashed out into the lead from the very first step and held the lead for the first 40m before fading. 他に特筆すべき選手といえば、日本の吉岡隆徳です。吉岡は非常にスタートの良い選手で、オリンピックでも最初の40mはレースを引っ張りました。

 

鉢巻を巻いた小柄な日本人が途中までではありますが、先頭を走ったことに観客は胸を打たれ、レース後には"Yoshioka! Yoshioka!"と大コールで吉岡さんを称えたそうです。

 

吉岡さんの編み出したスタート法はロケットスタートと呼ばれるもので、現在の山縣選手のようにギリギリの低さで飛び出すものでした。

 

当時の世界タイ記録である10.3を複数回マークするなど、日本陸上史に残る名スプリンターでした。その技術は飯島英雄さんや故・依田郁子さんなどに引き継がれるなど、吉岡さんが日本陸上界にもたらした功績は計り知れません。

 

2020年東京五輪100m決勝のスタートラインに、再び日本人スプリンターが立つことを期待しましょう。

 

《参考資料》

吉岡隆徳著『わが人生一直線』(日本経済新聞社、1979年)

 

走高跳の歴史 (The History of HighJump)

皆さん、走高跳をしている選手を思い浮かべてください。

 

おそらく頭に浮かぶのは、背をバーに向けて華麗に跳び越える選手の姿でしょう。この跳躍方法は "Back-first Technique"(背面跳び)と呼ばれるものです。

 

実は、人類は非常に長い年月をかけて、この跳び方にたどり着きました。

 

今回は走高跳の歴史を、例のように英文記事を参考にして、ひも解いて行きます。

 

背面跳びを世界で初めて試みた、ディック・フォスベリー (Dick Fosbury) の跳躍↓

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目次

1.黎明期

2.ベリーロールの時代

3.背面跳びの誕生

4.現代の走高跳

 

1.黎明期

記録上、初めて走高跳が行われたのは19世紀のスコットランドでの試合です。当時の跳躍方法は正面跳びはさみ跳びが主流でした。

 

はさみ跳びは学校の教科書にも記載がありますが、正面跳びに関しては、ほとんど完璧に忘れ去られた跳び方です。これは、バーの正面から助走し、ライダーキックのように跳び越える跳躍スタイルです。

 

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しかしながら、19世紀末頃になると、徐々に技術的な改良が成されます。

 

アイルランドアメリカ人のSweeneyという選手は、はさみ跳びを改良したフォームを採用し1985年に1.97mの記録を出します。これはEastern cut-off と呼ばれました。英文記事によると、これは「はさみ跳びと同じように踏切り、そのあとに背筋をピンと伸ばし目線は完全に上に向けて跳ぶ」跳躍方法だそうです。

 

また、20世紀に入ると、異なる跳躍方法がHorineというアメリカの選手によって編み出されます。これがWestern Roll という跳び方です。Horineは1912年に2.00mを跳びました。

 

1936年のベルリン五輪では、Cornelius Johnsonという選手がこのスタイルで2.03mをクリアします。

 

体の側面をバーに向けて跳び越えるのが特徴です。(5:55~)

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2.ベリーロールの時代

次なるテクニックが生み出されたのは、1956年頃になります。それが、皆さんにも比較的なじみのあるStraddle technique(ベリーロール)です。ベリーロールは、Western Rollと踏切までの形は大きく変わりません。ただし、バーを越えるときに選手はお腹を下に向けます。

 

ベリーロールにより、世界で初めて7フィート(2.13m)の壁を破ったのがチャールズ・デュマス (Charles Dumas)という選手です。(0:18~)

 

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そして、1964年にはソビエトのワレリー・ブルメル (Valeriy Brumel)という選手が2.28mにまで記録を引き上げます。しかしながら、ブルメルは全盛期に交通事故に合い、以後は精彩を欠きました。(1:03~ブルメルの跳躍)

 

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3.背面跳びの誕生

そして、ベリーロールとは全く異なる跳躍スタイルとして、アメリカのディック・フォスベリー (Dick Fosbury)が生み出したのが、背面跳びです。

 

背面跳びは、走高跳の黎明期に考案されたEastern cut-offを原型とする跳び方です。踏み切ったあとは頭と肩を先行させ、体を大きく反らせてバーを飛び越えます。

 

背面跳びがフォスベリーの時代まで行われなかった理由としては、ジャンプ後の選手を支えるクッションの質が低かった事が挙げられます。土や新聞をくるめたような緩衝性の低いクッションで背面跳びを行うと、首を捻ってしまう恐れがあります。

 

余談ですが、漫画「デカスロン」の主人公、風見万吉は同様の理由から背面跳びを諦め、ベリーロールを採用しています。

 

フォスベリーが1968年のメキシコ五輪で優勝したことで、この技術は世界中に広まります。しかしながら、1978年まではベリーロールでの世界記録更新もありました。故に、背面跳びが本当に世界的に浸透したのは1980年の前後だと考えられます。(0:38~フォスベリーの背面跳び)

 

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4.現代の走高跳

背面跳びが発明されたことで人類は2.40mの壁をも破り、現在の世界記録はハビエル・ソトマヨル (Javier Sotomayor) が持つ2.45mです。この記録は20年以上更新されていませんが、近年はムタズ・エサ・バルシム(Mutaz Essa Barshim)選手やボーダン・ボンダレンコ (Bohdan Bondarenko) 選手など有望なハイジャンパーがいるので、近いうちに新記録達成のニュースが聞けるかもしれませんね。

 

0:10~ソトマヨルの世界記録。

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今回見てきたように、走高跳は本当に過去の選手たちのたゆみない努力の上に発展してきた種目と言ってよいでしょう。

 

《参考資料》

Captcha(2018年7月25日アクセス)

陸上競技の死亡事故事例 (Accidents On the Track)

基本的に選手同士のフィジカルコンタクトが少ない陸上競技では、物理的な要因による怪我や事故はあまり見られません。

 

しかしながら、陸上競技の練習や試合では大勢の選手が同じトラック・フィールドで動き回るがゆえの事故が発生します。

 

今回は国内外で起きた事故を紹介することで、市民ランナー、選手、保護者、そして指導者の方々に、今一度安全管理について考えてもらいたいです。

 

1.事例集

①事例1(1995年12月13日)

順天堂大学陸上競技部箱根駅伝に備えた練習で、国道を走っていた際にトラックにはねられ死亡。

 

②事例2(1996年8月19日)

東海大学の陸上部員の頭に、後輩の投げたハンマーが直撃し死亡。

 

③事例3(1998年6月27日)

山梨学院大学3年生の陸上競技部員は、屋内プールで潜水トレーニングをしていた。息を止めるトレーニングをしていた際、5分を過ぎても上がってこず、部員が引き揚げたが、その後死亡。

 

④事例4(2000年6月30日)

中学校にて体育の授業中、走幅跳をしていた生徒が砂場わきにある鉄棒に頭を打ち付け、急性硬膜下血腫で死亡。

 

⑤事例5(2008年5月)

横浜で行われた県高校総体陸上で、ウォーミングアップをしていた選手が、トラックを横切った生徒に衝突した。選手は頭を強打し同年7月に死亡。

 

⑥事例6(2017年12月20日

群馬県の高校で、生徒の投げたハンマーがサッカー部員の頭に直撃し、救急搬送されたが死亡。

 

2.事故防止のための取り組み

以上のように、体育の授業中、部活動中、大会のアップ中、外での練習中、、、危険は常に選手の周りにあります。

 

これら事件を踏まえて、対応策を考えました。

①一般道路を走るときは、見晴らしが良い場所で明るい時間帯に行う。

②様々なスポーツ部員でグラウンドを共有する場合、危機回避が難しい投擲種目の練習や、野球のバッティング、トラック側に向けたサッカーのシュート練習などは控える。また、練習を行う場合も必ず指導者の指示を仰ぎ、電灯やネットなどの安全対策を行う。

③大会でのアップ中、トラックを走る前は「○レーン、走ります!」と声を掛けてから走る。また、トラックを横切る場合は十分に左右を確認したうえで、選手に伝わるように手を挙げたり、声掛けを行う。

 

私の考えた対応策は、誰でも思い浮かぶような簡単なものです。しかし、日本の部活動の現状を見ると、その程度の危機管理も十分に行われていないように感じます。

 

実際に私も、陸上競技の練習中にサッカーボールが直撃したことや、野球部のノックを警戒しながら走っていた記憶があります。また、大会でのアップで衝突する選手を見たこともあります。

 

このような小さな事故は、あらゆる場所で日常的に発生していると思います。

 

選手には、周りを思いやる気持ちを持ち、また指導者には大切な選手の命を預かっているという自覚を持ち、スポーツに携わってもらいたいですね。

 

《参考資料》

朝日新聞「練習中にはねられ、順天堂大選手死亡 箱根駅伝を前に」1995年12月24日付朝刊、2社、22頁。

朝日新聞「ハンマー直撃、陸上部員死亡 平塚で東海大生/神奈川」1996年8月20日付朝刊、神奈川。

朝日新聞「潜水の訓練中、陸上部員が水死 山梨学院大」1998年6月28日付朝刊、1社、35頁。

朝日新聞「幅跳びの記録測定中に鉄棒で頭打ち生徒死亡 春江中/福井」2000年7月2日付朝刊、福井1、33頁。

朝日新聞「損害賠償を求め、遺族が県など提訴 県高校総体選手衝突死/神奈川県」2010年8月6日付朝刊、横浜・1地方、27頁。

朝日新聞「陸上ハンマー直撃、サッカー部員死亡 群馬の高2、部活中に」2017年12月21日付朝刊、2社会、34頁。