The Remains of Runners ~走者の追憶~

陸上競技の海外記事を中心に執筆します。

楊伝広 (Yang Chuan-Kwang) ①

目次

1.はじめに

2.楊伝広の略歴

3.次回予告 

 

1.はじめに

皆さん、陸上界の「鉄人」といえば誰が思い浮かびますか?

 

おそらく、若い世代ですと室伏広治選手、少し陸上に詳しい人ならその父である室伏重信選手の名前を思い浮かべることでしょう。

 

しかしながら、さらに昔、台湾には「アジアの鉄人」と呼ばれた一人の選手がいました。

 

1960年のローマ五輪男子十種競技で銀メダルに輝いた楊伝広という選手です。

 

そんな選手をどうして私は知ったのか?

 

陸上の十種競技をテーマとした『デカスロン』という漫画があります。

 

その作中で、主人公の風見万吉が「毎日デカスロン」というトレーニングを行います。

 

十種競技とは100m走、走幅跳砲丸投走高跳、400m走、110mH、円盤投棒高跳やり投げ、1500m走の十種目を2日間かけて行い合計得点を競う、極めて過酷な種目です。

 

それゆえ、走跳投の全てを備える十種競技のチャンピオンは"King of Athlete"と称され、欧州では高い人気を誇ります。

 

私も何度か競技を見ましたが、最終種目の1500m走のあとは、2日間の疲労で多くの選手は立ち上がることすらできません。

 

「毎日デカスロン」とは文字通り、毎日5種目を本気で行い、それに加えて別メニューもこなす過酷なトレーニング方法です。そして、この練習方法を編み出した人物として、今回取り上げる楊伝広という選手が紹介されています。

 

競技の特性ゆえ、十種競技の名選手は屈強な肉体を持つ黒人・白人系のアスリートが大多数です。

 

そんなアジア人には不向きといえる種目で、五輪のメダル獲得を成し遂げた楊伝広とは如何なる人物だったのか。

 

2.楊伝広の略歴

それでは、楊伝広の簡単な略歴表を作りました。

 

1933年7月10日 台湾、台東県に生まれる。

1954年 アジア大会(マニラ)優勝。

1956年 メルボルン五輪、8位入賞。

1958年 アジア大会(東京)優勝。2連覇達成。

1960年 ローマ五輪、第2位。台湾初のオリンピックメダリストに。

1963年 十種競技で9121点の世界記録を樹立。*現在とは異なる採点方式。

    全米体育協会選手権の110mHで5位入賞。

1964年 東京五輪、第5位。

1970年 映画"There Was a Crooked Man"に出演。

1984年 立法委員に当選。一期で退任。

1989年12月 台東県長選に出馬。

2001年 肝臓癌を宣告される。

2007年1月27日 心臓発作で死去。

 

正確な年が分からない出来事も含めると以下のようになります。👇

 

・生誕~陸上競技との出会い

楊伝広は1933年に台湾の台東県に生まれます。楊は運動能力に長けると言われるアミ族(台湾先住民)の出身でした。大家族で、6人の兄弟が日本へ出征しています。恵まれた自然の中で育った楊は身体能力を磨き、農業高校時代に陸上競技に出会います。楊の素質を見出したのは、野球の名選手で台湾から甲子園に出場した陳耕元という人物です。映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』にもその事実を示すエピローグが流れています。陳もプユマ族という先住民の生まれで、甲子園出場時は同郷のプユマ族から羨望の眼差しを受けていました。

・台湾の英雄へ

瞬く間に素質を開花させた楊は、1954年と1958年のアジア大会で男子十種競技に出場し連覇を達成します。また、110mHと走幅跳では銀メダル、400mHでも銅メダルを獲得するなど専門の選手に引けをとらない活躍をしました。ちなみに、1958年のアジア大会は東京で行われましたが、楊は素足で競技を行っていたと日本鈴木章介氏は証言しています。さて、正確な年月は不明ですが、楊はある時期から拠点をアメリカに移し、留学先のカリフォルニア大学で競技に打ち込みます。そこでチームメイトとなったのが1960年のローマ五輪男子十種競技で金メダルを獲得したレイファー・ジョンソンです。楊はジョンソンに僅か58点及ばなかったものの銀メダルに輝きます

・世界記録樹立~東京五輪での敗北

ローマ五輪から3年後の1963年、楊は Mt. SAC Relaysという試合で9121点という世界記録を樹立します。これは現在の採点基準にしても8000点を超える記録です。ちなみに、日本人が初めて8000点の大台に乗ったのは2011年です。やりの規格や計測方法の変化はあるものの、いかに楊の記録がアジア人として秀でたものかが分かりますね。記録の内訳は、100m走=10.7、走幅跳=7.16m、砲丸投=13.22m、走高跳=1.91m、400m走=47.7、110mH=14.0、円盤投=40.99m、棒高跳=4.83m、やり投げ=71.75m、1500m走=5:02.4、でした。ちなみに、楊は同年に棒高跳で4.93mの世界室内記録も作っています。現在もそうですが、一流のデカスリートは得意種目では専門の選手にも劣らない記録を持っていますね。 前年に世界記録を打ち立てたことで、1964年の東京五輪では優勝候補と目されますが結果は5位に終わりました。東京五輪日本代表の鈴木章介氏によると、この時の楊は体調不良で万全ではなかったそうです。楊は風邪をひき、膝も痛いと鈴木氏に吐露しました。楊は日本語に堪能でした。

・引退後~死去

東京五輪後に実質的に引退した楊は後進の指導に当たっていました。その傍ら、1970年にはイギリスのコメディ映画に出演。さらに、1984年には政界進出するなど精力的に第二の人生を歩んでいました。日本でも谷亮子さんやアントニオ猪木氏など、引退後政界に進むスポーツ選手はいます。楊は先住民の出身で台湾では国民的英雄、さらにはアメリカへの留学経験もあるので驚きはありませんね。しかしながら、議員時代の楊は中台の緊張緩和や原発反対を主張したことで対立候補の国民党から批判を受けました。また、1989年には台東県長選にも立候するが落選するなど、政治活動はあまり上手くは行かなかったようです。結局政治からは手をひき、1990年時点では妻子をアメリカに置き、自身は台湾体育協会の練習施設で有力選手の指導を行っていました。しかしながら、楊は2001年に肝臓癌を宣告されます。そして2007年1月27日に、アメリカのカリフォルニア州サンフェルナンドバレーにて脳卒中で倒れ、帰らぬ人となりました。

 

3.次回予告

今回は簡単にではありますが楊伝広の略歴を見てきました。私が探した範囲では、ここまで詳しく楊について書かれた記事は他に見当たらないので、ぜひ参考になればと思います。

 

次回は映像を通して、さらに楊への理解を深めていきたいと考えています。

 

お楽しみください。

  

 

《参考資料》

Yang Chuan-kwang | Revolvy(2018年7月12日アクセス)

C. K. Yang, 74, Decathlon Silver Medalist, Is Dead - The New York Times(2018年7月12日アクセス)

台湾の五輪銀メダリストの恩人は映画「KANO」にも登場の主力選手 | 芸能スポーツ | 中央社フォーカス台湾(2018年7月14日アクセス)

 朝日新聞「楊選手が世界新 十種競技_外国」1963年4月29日付夕刊、10頁。

朝日新聞「ローマ五輪で金メダルの「アジアの鉄人」楊氏、台湾の県長選出馬へ」1989年10月14日付朝刊、7頁。

朝日新聞「アジアの鉄人 20年ぶりの大陸 台湾陸上コーチ 楊伝広さん」1990年10月2日付夕刊、3頁。

朝日新聞「楊伝広さん死去」2007年1月29日付朝刊、31頁。

朝日新聞「(惜別)台湾の五輪10種競技銀メダリスト・楊伝広さん 時代駆けたアジアの鉄人」2007年2月19日付夕刊、15頁。

 朝日新聞「(東京五輪物語)陸上10種競技 「アジアの鉄人」の悲運」2014年11月29日付夕刊、12頁。

 

続きはこちら↓

楊伝広 (Yang Chuan-Kwang) ② - 往年の陸上選手について語るブログ

ロベルト・エミアン (Robert Emmiyan) ②

前回の続き、ロベルト・エミアン後編です!

 

前回の記事はこちら↓

ロベルト・エミアン (Robert Emmiyan) ① - 走者の記憶~The Reminds of Runners~

 

新たに発見した記事はこちらです。(記事は2010年のものです。)

意訳しながら紐解いていきます。

archive.is

(2018年7月9日アクセス)

 

目次

1.1986年のヨーロッパ選手権

2.ソ連代表として戦うこと

3.世界歴代3位(当時)の大ジャンプ

4.アルメニア地震とその後の競技生活

5.アルメニア独立と引退後

6.これからの陸上界

 

1.1986年のヨーロッパ選手権 

Q)Tell us about what happend in Stuttgart at the 1986 European Athletics Championships, when you won the gold medal in the red vest of the former Soviet Union?

Q)1986年にシュツットガルトで行われたヨーロッパ選手権について教えてください。あなたは旧ソ連の赤のユニフォームで出場し勝利しましたよね。 

 

1980年代は冷戦真っただ中で、国家ぐるみのドーピング問題に見られるようにスポーツの世界にも暗い影を落としました。

 

エミアンの出身地であるアルメニアも冷戦の煽りを受けたことは間違いありません。アルメニアは1991年まではソ連の一部でした。なので、エミアンは現在の台湾人のように出身地のアイデンティティを持ちながら、「アルメニア人」として大きな試合に出ることは出来なかったのでしょう

 

さて、余談が入りましたがこの質問に対するエミアンの回答。

 

A) I worked very hard prior to that competition in Stuttgart and I was in great shape. I felt that I had a lot of power from the very first jump. In the end I won by a very big margin, jumping 8.41m. My team mate Sergey Layevskiy was the only other man over eight metres, jumping 8.01m. It's still the Championships record and I'm wondering whether anyone will beat it in Barcelona, as you can imagine, I'll be watching the long jump closely.

There ware also many Armenianin in the stands watching me jump. In fact, there was quite a large Armenian community in Stuttgart who knew that I was Armenian and that night I went out to celebrate with them rather than with others in my Soviet Union team.

When I got home to Armenia after the Championships, that was the time to celebrate with my family and friends at home. They had learnt of my success through the newspapers rather than having watched me live on TV or on the internet as people would nowadays.

 

A)シュツットガルトの試合前にはとても熱心に練習して、状態は良かったです。試合では力あふれる跳躍を初めからできました。結局、他を寄せ付けず8m41の記録で快勝しました。これに迫ったのは、8.01mを跳んだチームメイトのセルゲイだけでした。8.41mは今でも大会記録です。バルセロナで誰か記録を破ってくれるのか、注目しています。

スタンドには私の跳躍を見てくれるアルメニア人が大勢いました。彼らは私がアルメニア人だと知っていたのです。その晩はソ連チームのみんなよりも、彼らと共に勝利を分かち合いました。

そしてアルメニアに帰ったら、今度は家族や友人と祝う番です。彼らは新聞で私の優勝を知っていました。今だったらテレビ中継やインターネットで試合結果は分かるけれど、昔はそうはいきません。

 

この回答からも、エミアンが故郷を重んじる人間であることが分かりますねソ連のチームメイトにどのような感情を抱いていたのかは語られません。しかし、試合の晩にソ連の選手ではなく、初対面であろう同郷の人たちと祝杯を挙げたことが全てを物語っています。当時のスポーツ選手は今よりも国や故郷を背負って戦うという意識が強かったと思います。

 

一方で、エミアンは「ソビエト連邦」の選手として競技することで恩恵も受けていました。

 

2.ソ連代表として戦うこと

Q) What was it like competing for the Soviet Union in this era?

A) For an athlete like me, those were the best of time. The old Soviet-style system of assistance was still in place, you hardly got any money but almost every thing you wanted was provided for you, such as equipment, coaching and training camps. However, the situation politically was getting easier from before. It was the time of Perestroika. We were traveling abroad more and there were fewer restrictions in place. In fact, in 1986 and 1987, we went on several warm weather training camps out of the country, including to France, Italy and Spain.

 

Q)ソ連代表として競技することについてどう考えていましたか。

A)私のような選手にとっては、良い時代でした。旧ソ連のサポート体制は今でも名残があります。確かに私たちはほとんどお金をもらえませんでした。しかし、器具やコーチ、トレーニングといった私達が求めるものの多くは無償で提供されました。あの時代には政治的な状況もずいぶん好転していましたし。そう、ペレストロイカの時期ですね。私たちは規制の緩い土地に移るようになりました。実際に、1986年と1987年にはフランスやイタリア、スペインなどの温暖な地域で合宿を張りました。 

 

冷戦下では西側諸国と東側諸国、それぞれの威信をかけてスポーツが行われていました。したがって、エミアンのようなユース時代から優れた成績を収めた選手は手厚いサポートが受けられたのでしょう。

 

さて、話はエミアンが8m86を記録した試合の話に移ります。どういった要因であの偉大な記録が生まれたのか。

 

3.世界歴代3位(当時)の大ジャンプ

Q) Tell us about the Europian record jump, how did that happen?

A) The following winter, after the European Athletics Championships, ahead of the 1987 season, everything just went so well in training. I was faster, stronger. I'd jumped over 8.45m, which was then the European record (set Yugoslavia's Nenad Stekic set in 1975), in training.

My huge jump of 8.86m in Tsakhkador (a small town at 1750m altitude 50 kilometres north of the Armenian capital Yerevan) was a result of all that. Yes, perhaps the altitude added a little to the distance but it would have still been a fantastic jump at sea level. To be honest, the distance didn't surprise me. I was confident that sooner or later I could beat Bob Beamon's world record of what was then 8.90m. I felt unbeatable.

I thought the jump of 8.86m in Tsakhkador was good but that I could still do better. Even after I got a small injury later that summer, I still felt that way, even though I waw beaten by Carl Lewis at the World Championships in Rome.

I still jumped 8.53m but I was beaten by an athlete who I saw also had the potential to break the world record so there was no big disappointment, just a determination to work even harder and I was still convinced that on the right day I could jump over nine metres. I can say this now looking back to those years.

 

Q)あなたの持つ欧州記録について教えてください。どういった状況下であの記録が出たのでしょうか。

A)ヨーロッパ選手権のあとの冬、1987年のシーズン前は全てが順調だったよ。私はより速く、強くなった。ヨーロッパ記録の8.45mも射程圏内に入っていた。

8.86mという私の大ジャンプはその結果さ。なるほど、高地であったことも記録の要因にはなっただろう。しかし、平地だったとしてもあのジャンプは素晴らしかったと言えるよ。正直に言って、あの記録自体に驚きはなかったんだ。遅かれ早かれ、ビーモンの持つ8.90mの記録も破れると感じていた。

確かに、8.86mのジャンプは素晴らしかった。でも、まだまだ改善の余地はあったよ。その後の夏に小さな怪我をした時でさえ、そう感じていた。また、カール・ルイスにローマの世界選手権で敗れた後でさえね。

ルイスは私と同じく世界記録を破る素質のある選手だったので、負けたことにそれほど失望はなかった。もっと努力すれば、しかるべき時に9mは必ず跳べた、今振り返ってもそう思うよ。

 

エミアン自身はさらに記録を伸ばせると考えていました。確かに、高地の恩恵はあったものの、映像から見る限りトラックの質は良くなさそうでしたね。しかしながら、結局この記録が生涯ベストとなってしまいます。

 

4.アルメニア地震とその後の競技生活

Q) So what happened after the end of the 1987 season?

A) The sensation (that Emmiyan could break the world record) continued through the winter of 1987 and during 1988. I was doing some huge jumps in training and was in good shape.

All that changed with the Armenian earthquake in December 1988. I lost my family home, my father and other members of family. I was still able to train and was still in good shape

I never wanted to lose but I lose that feeling that I was capable of anything. I countinued to jump over 8.20m and 8.30m. In fact, I jumped more than eight metres for 15 years and I'm very proud of my consistency, but there is so much about long jumping and athletics that is mental and that was what was affected that day of the earthquake. I was, of cource, worried about my mother and I certainly had some psychological problems after the earthquake. My life and my athletics changed from what it had been before.

 

Q)1987年以降のシーズンはどうでしたか。

A)世界記録を出せるという思いは1987年と1988年を通して変わらなかったよ。練習でも良い跳躍をしていたしね。

全ては1988年12月にアルメニアで起きた大地震で変わってしまった。私は父やその他家族を失った。しかし、それでも練習には打ち込んでいたよ。

私は負けても良いと思ったことは一度もなかった。でも、不可能はないという思いは消えてしまった。私は8.20m、8.30m以上を跳び続けた。実際に15年以上も8mを超える跳躍をしてきたんだ。これは非常に誇りに思うよ。しかし。スポーツとメンタルは密接に関係している。そして地震は私のメンタルにも影響を及ぼした。私は常に母親を心配していたし、精神的な不調にも悩まされた。私の競技人生は地震の前と後とでは完全に変わってしまったんだ

 

エミアンはなぜ記録を更新できなかったのか。前編でもふれたように、やはり故郷を襲った地震が大きな原因のようですね。エミアンの故郷や家族への愛は記事の前の方でも書いた通りです。このような悲劇がエミアンから記録更新の意欲を削いでしまいました。一方で、世界記録こそ出なかったものの15年に渡って8mを超える跳躍を繰り返したことは驚嘆に値します。

 

さて、時は進みアルメニアが独立を果たした1991年に話は移ります。

 

5.アルメニア独立と引退後

Q) What has happened since Armenia became independent in 1991?

A) I was very happy. I have always had a strong identity as an Armenian even when I was competing for the Soviet Union. My family was, and is, Armerian. I lived in Armenia and trained there, when I was an athlete competing for the Soviet Union, never moving permanently to Moscow.

I was lucky that after the break up of the Soviet Union in 1991, I was able to compete for a French club and that was how I made living and stayed in the sport, because the political situation changed and suddenly things became very tough in Armenia. In paris, I met my wife, who is also from the Armenian community and now I have two daughters.

I have since been involved in coaching and nine years in Qatar from 2000 to 2009. I can say that I had some success because I coached the Catari record holder and the boy who won at the 2002 World Junior Championships. Since 2009, I have also been a special advisor on the long jump to the French federation and I've been helping Salim Sdiri, along with his regular cpach. I'll be in Barcelona at the European Athletics Championships to see him jump hopefully get a medal.

 

Q)1991年にはアルメニアが独立しましたね。

A)とても嬉しかったです。私はソビエト連邦の代表として競技していましたが、アルメニア人としての誇りを常に持っていましたから。私の家族は皆アルメニア人です。私はモスクワへの移住が認められなかった時代、ずっとアルメニアに住み練習を積んできました。

ソ連崩壊後、アルメニアは政治的に緊迫しましたが、幸運にも私はその頃フランスのクラブチームで練習を積んでいました。パリではアルメニア人の妻とも出会い、今は二人の娘もいます。私は2000年から2009年までカタールでコーチをしました。カタール記録保持者や2002年の世界ジュニアチャンピオンを指導する機会にも恵まれました。2009年からはフランスで選任アドバイザーに任命され、サリム・スディリ選手への指導をもう一人のコーチと一緒に行っています。バルセロナでのヨーロッパ選手権で彼がメダルを取ることを期待しています。

 

ソ連崩壊に伴うアルメニアの独立、結婚、そして引退…。大きな3つの節目を迎えたエミアンですが、セカンドキャリアは非常に充実しているようですね。

 

知名度は低い選手ですが、カール・ルイスマイク・パウエルの記録にも迫った選手です。彼にしかない知識や経験はきっと数え切れないほどあることだと思います。

 

6.これからの陸上界

Q) What do you think about the fact that your European record is still there?

A) At the time, I thought to myself that I would be very happy if I had the record for five years but it's been there for 23 years. Another reason why I jumped so far is because I was pushed by Carl Lewis. Mike Powell, who went on to set the existing world record of 8.95m in 1991, was also pushed by Carl Lewis.

Who will break it? Well, there are some talented European jumpers at the moment. When Yago Lamela (from Spain) was jumping well, about a decade ago, I thought he might be the one to challenge my record. There is Germany's Sebastian Bayer, I have seen his jump at the European Athletics Indoor Championships in Torino last year, and it was very impressive. There is also the Frenchmen Sdiri and Gomis, of course. However, although you firstly need the ability to be able to jump very far, you also need a rival and who will push you and the personality to respond.

 

Q) あなたの欧州記録が未だ破られないことについてはどう考えますか。

A)私は記録を出した時、5年保てば良い方だと考えていました。しかし、すでに23年の月日が経ちました。私が素晴らしい記録を残せたのは、間違いなくカール・ルイスに刺激を受けたからです。マイク・パウエルが8.95mの世界記録を出せたの、ルイスの存在があったからでしょう。

誰が記録を破るでしょうか?今、ヨーロッパには何人かの前途有望なジャンパーがいます。10年ほど前、スペインのラメという選手が良いジャンプをしました。彼には私の記録に挑戦する資格がありました。昨年のヨーロッパ室内選手権で見た、ドイツのバイヤー選手の跳躍も素晴らしいものでした。もちろんフランスにも、スディリとゴミスがいます。記録を出すには走幅跳の能力に加えて、刺激をくれるライバル、そしてそれに応える人間性が必要です。

 

エミアンがもしもルイスやパウエルと同じ時代に生まれていなかったたら、もっと有名な選手になれたのに、、、

 

周りからすると、そんな見方もありますがエミアンの考えは違います。ルイスがいたからこそ彼は自信を高め続ける覚悟を持つことが出来た。

 

8.95mの世界記録も、間違いなくルイスを超えようと願い続けたパウエルの執念が生んだものですよね。

 

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さて、以上で記事の解説は終わります。

 

私がロベルト・エミアンという選手を知ったのは、走幅跳を始めた12歳の頃だったと思います。

 

空中で止まってるかのような高さのある「反り跳び」。芸術の域まで高めた技術に加え、ミステリアスな旧ソ連の選手である。私のエミアンに対するイメージは「ロボットのように正確、冷静な選手」でした。

 

しかし、ここまで見てきたようにロベルト・エミアンは故郷愛、家族愛に溢れ、時代の変化や身内の不幸などの困難にも耐え抜いてきた強い精神を持つ人間であります。

 

彼ならきっと、良き選手に恵まれ、いつの日か夢の9mを達成してくれるジャンパーを育ててくれるでしょう。

 

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ひときわ長い助走から、両腕を胸の前に出して踏み切る独特の動き。

 

体は誰よりも高く伸び上がる。それは「鳥人」と呼ぶに相応しいジャンプ。

 

永遠に破ることができないと言われた、ボブ・ビーモンの世界記録に迫った8.86mの大跳躍。

 

"I never wanted to lose."(私は負けてもいいと思ったことは一度もない。)

  by Robert Emmiyan

 

m.youtube.com

 

 (続きはこちら↓)

khorosho.hatenablog.com

 

 

ロベルト・エミアン (Robert Emmiyan) ①

今日はロベルト・エミアンという男子走幅跳の選手について。

 

エミアンは8.86という世界歴代4位の記録を持っていながら、あまり情報が載ってない選手です。

 

m.youtube.com

 

 

 8.86をマークしたときの映像ですが、白線が凸凹と曲がって見えますね。土かタータンかは判別できませんが、状態の良くない競技場で出した記録なのは間違いなさそうです。

 

鳥人」と呼ぶにふさわしい、伸びあがりのある美しいそり跳びですね。

 

さて、例のように英文記事を載っけます。

 

sport.mediamax.am

 

(2018年7月8日アクセス)

 

驚くべきことに、22歳でこの記録をマークしたそうです。

 

この日のことを次のように語ります。

 

"I was brimming with energy and it felt like I would jump over the sandpit altogether."

 

「この日はエネルギーが溢れて、砂場を飛び越えそうな気すらしたよ。」

 

エミアンは最高の状態で、今も残るヨーロッパ記録を叩き出しました。

 

この記録が30年以上も残ってることに対しては次のように語ります。

 

"My dream was to keep ther record for at least 5 years, but it's  been unbeaten for 30 years already. I'm asked sometimes if I'd like the record to stay forever. No,I wouldn't. I wish that one day Armerian athletes beat my record and set a new, better one. Nevertheless, whoever beats my record, I'll be the first to congratulate them," said Emmiyan.

 

「記録は5年保てば良いと思ってた。記録がずっと残って欲しいか?と聞かれることがあるけど、答えはNoだ。いつかアルメニアの選手が新記録を打ち立てるのを見たいね。誰が記録を塗り替えようとも、私が一番に祝福するよ。」

 

世界記録に迫ったエミアンですが、彼は一度も世界大会で優勝をしていません。同時期に争ったライバルには歴史上最高のロングジャンパーであるカール・ルイスマイク・パウエルが立ちはだかりました。

 

この辺りが、エミアンの知名度の低さに繋がっていると思います。

 

さて、それではエミアンはどのような人生を歩んできた人物なのでしょうか?

 

wikiの情報にはなりますが、エミアンは16歳で7.77の記録を出すなど早くから頭角を現しました。

 

その後はヨーロピアカップで好成績を収めるなどトップ選手に成長します。

 

そして、8.86を跳んだ1987年。

 

どうやら、アルメニアのTsaghkadzorという高地で記録を出したそうです。

 

1987年以降もエミアンは世界大会に出場し続けますが、1996年のアトランタ五輪で予選落ちした後に引退。

 

2010年からはアルメニアのスポーツ協会の会長を務めているそうです。

 

ところで、wikiにはさらに興味深い情報が載っていました。

 

1988年に巨大地震アルメニアを襲い、エミアンは父と残りの家族も失ったそうです。

 

この悲しい事故が原因でエミアンは心の病に罹り、競技にも影響を与えました。

 

身内の不幸がありながら、その後10年近く世界の第一線で活躍したということです。

 

引退後、エミアンはフランスのパリに移り住み、現地のアルメニアコミュニティで知り合った女性と結婚し、二人の娘をもうけます。

 

エミアンはいつか故郷に戻りたいと考えている、とありますが前述のように彼は現在アルメニアのスポーツ協会の会長をされているので、その願いは叶ったのかな?

 

もっと情報が出てきそうなので後編も書きますね。

 

それでは。

 

後編はこちら⇓

khorosho.hatenablog.com

 

khorosho.hatenablog.com

 

 

ジェレミー・ウォリナー (Jeremy Wariner)

今日はジェレミー・ウォリナーという男子400mの選手について。

 

ウォリナーはアテネ五輪(2004)と大阪世界陸上(2007)の覇者です。

 

背筋の伸びた美しいフォームで世界歴代3位(当時)の43.45という記録を残しました。

 

元世界記録保持者のマイケル・ジョンソンをして「私の後継者」と言わしめた、才能あふれるロングスプリンターでした。

 

しかし、2009年頃を境に世界大会決勝で彼の姿を見ることはありませんでした。日本語で検索をかけてもその後の競技生活については分からず、、、

 

陸上短距離のトップ選手の多くは黒人系スプリンターですので、すらっとした白人ランナーの姿は印象深いものでした。

 

そんなウォリナーの現在は、、、?

 

www.si.com

(2018年7月7日アクセス)

 

"An Olympic gold medalist shows up at your door to hand over your sandwich, lemonade and chocolate chip from Jimmy Johns"

 

ウォリナーは既に引退して、Jimmy Johnsというベーカリーで働いているそうです。

 

記事によると、ウォリナーは怪我に悩まされ、2013年にアディダスとの契約が切れました。その後は目立った結果を残せず、リオ五輪の選考レースで引退を決意したそうです。

 

しかしながら、ウォリナーは悲観せずセカンドキャリアを築いていこうとしているようです。

 

"Wariner hopes that his career now serves as a lesson to younger athletes that it's impossible to run at a high level forever, and that planning for the future is important"

 

ウォリナーは自身の経験から、若い選手が引退後のプランを考えることの大切さを説きます。

 

また、次のようにもあります。

 

"In addition to his sandwich business, Wariner is aiming to get into coaching in the near future. He has some experience as a volunteer assistant with Baylor but he'd like to finish his education and then look into options at other schools"

 

ウォリナーは近い将来、コーチをしたいと考える一方、まずは学校に通い直して人生の選択肢を見つめ直したいそうです。

 

この辺りはアメリカ的な発想だなと感じます。

 

日本のスポーツ選手で引退後大学院に進学するのは一般的な選択肢ではないと感じます。

 

基本的に日本ではストレートに大学、大学院を卒業してその後は定年まで会社で勤め上げるというパターンが多数です。

 

アメリカのように、年齢を問わずに大学に入りなおしたり、キャリアチェンジをすることに寛容な日本社会になってほしいですね。

 

話が少しそれましたが、ジェレミー・ウォリナーさんは今も元気にされているようです!

 

白人スプリンターではクリストフ・ルメートル選手がまだまだ現役ですので、来年の世界陸上に期待しましょう。